「私はサウナで生まれた」と言えるフィンランド人は、今の70代以上には少なくありません。1940〜50年代以前、フィンランドの農村では出産の場所はサウナが一般的でした。病院での出産が農村にも普及するのは1950年代から。それ以前は、サウナが清潔で暖かく安全な産室として機能していたのです。
なぜサウナが産室として選ばれたのか
産室としてのサウナの優位性は、複数の実用的な理由から説明できます。第一に清潔さです。フィンランドの農家において、最も清潔に保たれた建物はサウナでした。定期的に加熱されることで細菌が死滅し、タールが防腐機能を果たし、板壁や床も清潔です。当時の農家の居間や寝室は、家畜の世話や土仕事を行う人々が行き来するため、産室として使うには衛生上の問題がありました。
第二に温熱環境の制御です。新生児は体温調節機能が未発達で、寒冷環境に置かれると急速に体温を失います。サウナであれば室温を適切に保つことができ、お湯も即座に準備できます。フィンランドの冬(−20℃以下)において、暖かく保たれたサウナは産室として他の選択肢を圧倒していました。
第三に産婦の水の需要への対応です。出産には大量の湯が必要です。サウナは薪でお湯を沸かす施設ですから、湯の供給に困りません。農家の台所で湯を沸かすには時間と手間がかかりますが、サウナならストーブに水をかけるだけで蒸気と湯が得られます。
「saunaparonen」:サウナで生まれた子供
フィンランド語では「サウナで生まれた子供」を指す言葉として「saunaparonen(サウナパロネン)」が使われることがあります。「paronen」は古語で「子、娘」を意味し、「サウナパロネン」は「サウナの子」という意味です。この言葉には、サウナ生まれであることへの誇りと愛着が込められています。
歴史家イリョ・ヴォウティライネン(Iljo Voutilainen)は、1920〜30年代の農村出産記録を調査し、当時の農村出産の60〜70%がサウナで行われていたと報告しています。都市部では病院出産の比率が高まりましたが、農村では第二次世界大戦後もサウナ出産が続きました。
出産の介助者:産婆とサウナ
農村での出産には産婆(kätilö, ケッティロ)が立ち会いました。産婆はサウナの加熱から、清潔な布の準備、臍の緒の処置まで、出産の全過程を取り仕切りました。産婆の知識と技術は口頭伝承で引き継がれ、民俗医学(kansanparannus)の中核を担っていました。
産婆はサウナの熱を巧みに使いました。出産の前段階では高温で産婦を温め、陣痛を促進します(現代医学的にはこの解釈には疑問もある)。分娩後は新生児をサウナの温熱で温め、産婦の疲労回復にも使いました。産後数日間、産婦はサウナで過ごすことが多かったとされます。
衰退と近代化:1950年代以降
サウナ出産が急速に減少したのは1950年代以降です。戦後のフィンランドで産科医療の整備が進み、各自治体に助産師が配置され、病院や診療所での出産が推奨されるようになりました。1960年代には農村での病院出産率が50%を超え、1970年代にはほぼ100%になりました。
この変化は子どもの死亡率の劇的な低下を伴いました。フィンランドの新生児死亡率(1000出生あたり)は1920年代の約80から、1970年代には20以下に低下しました。現代医療の普及がこの変化の主因ですが、産科医療の近代化において「清潔なサウナ」が伝統的に果たしてきた衛生的な役割は、適切に評価される必要があります。
産室の記憶と、今のサウナの意味
現代のフィンランド人にとって、「サウナが産室だった」という事実は単なる歴史の記録ではありません。生まれた場所であり、家族が集まる場所であり、死者を清める場所でもあったサウナは、フィンランド人の人生のほぼすべての節目に存在してきました。ユネスコがフィンランドのサウナ文化を無形文化遺産に登録したとき、その理由の一つに「人生の誕生から死まで関わる包括的な文化的実践」が挙げられています。
岩手でも、温泉地の湯治場が病気の療養や出産後の回復に使われた歴史があります。「温かい場所で体を整える」という発想は、文化の垣根を超えた北方の知恵です。現代のサウナは産室でも病院でもありませんが、人々が集い、体を整え、本音で語り合う「特別な場所」であるという本質は変わっていません。
参照・参考文献
- Voutilainen I (1982). Saunassyntynyt: saunan historia synnytyslaitoksena Suomessa. Suomalaisen Kirjallisuuden Seura
- Statistics Finland: Historical infant mortality data (2018)
- Peltonen M (2003). Kansanparannus Suomessa 1800-luvulla. Finnish Academy of Sciences
- UNESCO (2020): Sauna culture in Finland — nomination dossier, section on "lifecycle significance"
この記事は歴史・民俗学の紹介を目的としています。